他には何も

考えたことをかくブログ

僕が僕でないために

 僕はあんまり僕であること(僕自身がオリジナルであること)にこだわらない。オリジナリティとか、唯一性とかにあまり興味がない。むしろ、僕はコピーの塊のように感じる。
 僕が好きなロックンロールやブルースの精神は、他人の受け売りだし、大切にしている言葉は、他人の言葉だ。僕が話すことも、今まで僕が見聞きしてきたものが勝手に変形したりしたものだ。僕というるつぼに、いろいろな他人が入って、コピーが発行される。そういうシステムだ。だから、僕の中に僕一人が生み出したものなど存在しない。僕は他人だ。
 ただ、僕はそれで構わない。僕の中に僕がいなくても構わない。むしろ、面白いことは外側に広がっている。そういう世界に生きている方が楽しいと思う。YO‐KINGが歌ったように、ソフトの受け手として、受けて受けて受けてそれが生きてる理由、死なない理由である。なぜなら興味は枝分かれ。
 甲本ヒロトが、「僕らしくなくても僕は僕なんだ」といった。まさにそうだと思う。僕がいなくても僕は僕だ。そういう一見矛盾した腹のすえ方が、僕には居心地がいいのだ。
 斉藤和義は、「僕は他人」という曲を書いている。内容は一見難しいが、僕は彼が、自分もその他人の一部なんだ、と感じているように思う。
 ルーリード氏の書いた歌に「I’ll be your mirror」という曲がある。これは、君が君の美しさを知らないなら、僕が君の鏡になって、君の素晴らしさを伝えたい。という歌である。これは、とんでもなく、僕が僕でないことを指向する歌だと思う。君(僕以外の物)になれれば、君に僕の気持ちを伝えられる、というとんでもない歌だ。最高だね。
 と、僕のこの、僕は僕でない、という理屈でさえも、他人の話のまぜこぜで出来ている。掘り返せば掘り返すほど、僕は僕ではなくなる。その感覚が最高に気持ちいい。
 
 デリダという哲学者いわく、オリジナルであることはさして重要でない。むしろコピーの方をよく見るべきだという。僕という存在を見る時もそうだ。僕を理解するには、僕に質問するのではなく、僕の好きなものを聞くべきだということだ。そして、僕は他人に対しても、そういう風に理解を進めている。