他には何も

考えたことをかくブログ

愛は余剰

 愛は余剰なのではないかと思った。本能ではないし、それがないと生きていけないわけではない。ただ、余剰がなければ、愛はないのではないかと思った。


 僕は最近、仕事の関係もあるけど、親子関係についていろいろな作品を読んでいる。資料というよりもノンフィクションなので、信ぴょう性は100%とはいかないまでも、数があればあながち大きくは外れないものだと思う。
 親子関係は言うまでもなく重要だ。しかし、それは在/不在の問題ではなく、単純に関心があるかどうかということである。親が不在であっても、関心を向けてくれているという心持さえ残っていれば、親子関係に問題はない。
 どういうわけか、荒れる子供の多くは、無関心な父親と奴隷のような母親に育てられている。父親は読んでその如く、母親は自分の生存にしか興味がないのである。このようになってしまった原因だとか、それの対処法には興味がないので見ていないが、いつもこの二人組である。
 重要なのは関心が子に向いていないということである。そして、それは生活に余剰がないからではないかと思った。そして、子が荒れれば母親はさらに隷属し、子は愛を見失う。
 
 他の愛についての作品では、極限状態での愛が描かれたりする。ただ、極限状態に愛はない。極限状態に慣れてしまえば、余剰は生まれるが、そうなったときに愛はないのだと思う。それは本能は裏切りとかそういう話ではなく、愛そのものが余剰を必要としているからではないだろうか。水のないところに植物が生えない。ただ、砂漠に適応すれば、サボテンのように花を咲かす。ということである。


 直感的に感じたことだから、文章としてはまとまりがない。ただ、それでもそのように書こうと決めた。
 愛は余剰が必要。この感覚は、これからも練られ続けていくのだろう。