他には何も

考えたことをかくブログ

マイノリティ

 マイノリティに対する私見として、「少数派に目を向けるべきだ!」という意見がある。これほど高慢ちきな言葉もないだろう。一体君はいつから人類の代弁者となったのか。
 しかし、このような感覚を持って生きている人はとても多くいるのだろう。そして彼らは、自分が少数派も忘れない英雄だと考えている。
 常々思うことだが、どうして自分を正常だと考えたいのだろう。どうして正常でないことを恐れて、天から見下ろすように世界を眺めるのだろう。天下りという言葉もとんと聞かれなくなったが、いまだに人々は天下りへの憧憬がやまない。そんな憧憬を自覚せずに持ち続けるくらいなら、自然主義のほうがましに思える。我が身を醜く感じ、ドロドロのヒロイズムに肩までどっぷり漬かっている方がまだましである。
 自分が馬鹿だといわれると不安になってしまう。自分が人と違うと不安になってしまう。その不安の原因は、精神の弱さではなくただ自分も他人も見えない愚かさである。私の好きな歌に「空がまた暗くなる」という曲がある。書き出しは「大人だろ 勇気を出せよ」。自分を見るのも他人を見るのも、そんな勇気が必要である。意気地なしの英雄は、自分が正常だと思う。


 そして、マイノリティ側もうぬぼれている。自分が傷ついた物語に酔いしれている。酔いが覚めるのが怖いから、いつまでも虐げられようとする。虐げられた傷で自分の存在を確かめている。メンヘラどもがリストカットしているのと同じだ。そんなことはすぐにやめなければならない。誰も君を救ってやらないのだから。意気地なしの英雄と、泥酔いの自傷癖は共依存だ。時間がたてばたつほど傷は膿み、首は絞められていく。新鮮な空気を吸うだけで救われるとしても、そんなことはしない。お互い大人としての勇気がないのだ。


 君が好きなものを見つけたとき、君の世界はとても満たされたはずだ。私はその瞬間を信じる。いつまでたっても満たされないのは、大人としての責務を果たしていない。世界を満たすのが大人の責務だ。
 私は世界を愛している。だから、少数派を尊重するなど決して言わない。私はすべてを尊重するために、大人になることを要求する。自ら溺れる者を否定する。君を尊重するために、君を追い詰める。そういう態度を矜持と言うのだろう。プライドを持て。勇気を出せよ。