他には何も

考えたことをかくブログ

自転車について

 自分の趣味は多い方とは言わないが、いろいろとある。音楽も聞くしやるし、小説も好きだし、漫画やゲームも好きだ。美術も好きだし、歴史も地理も好きだし、まあ、どこに行っても楽しめるおめでたい脳みそなのだが、最近気づいたことがある。それが、表題の自転車である。今まで運動の趣味を一つも持っていなかったが、自転車に関しては、趣味といっても過言ではない可能性を否定できない段階まで来ている。
 私の持っている自転車はいわゆるロードバイクの一種だが、2万円ほどでメンテナンスも手入れもほとんどしていないので、ボロボロである。それでも、この自転車で走るのはとても気持ちがいいものである。通勤でほとんど毎日乗っているが、電車で通勤しようと考えるのは花粉がひどい時期だけで、寒さや暑さには負けずに走っている。休日に特にすることがない時には、自転車にでも乗ろうかと考える。これではまるで趣味のようである。しかし、自転車で「当てもなく走る」ことはしたことがない。何でもいいのであたりを付けて走る。無目的だと、おそらく10分以内に帰ってくるだろう。そうすると、趣味と呼ぶには微妙な気がする。それでも、自転車で走ることは気持ちがいいことだと思う。
 自転車で走っているときは、なんでも考えることができる。風景が流れていく。何かに気を取られる必要がない。自分の体が前に進んでいるから、思考も自然と前進していくのだ。精神がやられた時には、体を動かすほかないのである。今どきコンビニはそこら中にあるから、疲れたら適当に休むこともできる。そして、一応の目的のために、私の体は奮起するのである。
 散歩だと、私にとっては安全ではない。考え事をしている間に、車にひかれそうになる。それに、同じ景色ばかりで気がめいってくる。また、目的地も設定しがたいので、やっぱりいいか…となってしまう。やはり自転車である。
 しかし、現状いい自転車を買おうとまでは思わない。人と競う気なぞ自転車に限らずないし、目的は走ることだけである。質実剛健である。
 私の愛車には、忌野清志郎氏に従って名前を付けてある。忌野清志郎氏は生前自転車で、LSD(Long Slow Distance)というプロジェクトを勝手にやっていた。彼はジョンレノンが大好きである。私はルーリードが大好きなので、ヘロインと名付けた。ヘロインはボロボロだが、いつだって私を快楽に導いてくれる。

VR的想像力とAR的想像力

 VR元年と言われて、何回目だろうか。5年くらい毎年がVR元年である。なかなか広まらないが、今回はVRに関して書こうと思う。


 タイトルには、対比させるような二つのワードを置いた。私が今回書きたいことは、この二つの想像力についてである。
 VRとは、「仮想現実」とも訳され、わかり易いのが、ヘッドセットを付けて、ゲームの中の世界を体感している様子である。一方、ARとは「拡張現実」と訳されるもので、わかり易いのは、ポケモンGoだろうか。現実にはいないポケモンをスマートフォンを通して出現させている様子である。この二つは、だいたい似たような技術を使っているが、方向性が違い、VRでは、私自身が仮想の世界に入っていくのに対し、ARは仮想の世界が私たちの現実に侵入していく。
 話は少し飛んで、ここ3年ほど、オタク業界を賑わせているのが、ヴァーチャルYoutuber(以下VTuber)である。モーションキャプチャなどの技術を使い、キャラクターを身にまとって配信している人たちである。いろいろなVTuberがいるが、そこにはVR的なVTuberとAR的なVTuberがいるように思う。
 VR的なVTuberは、そのキャラクターの住まう世界に引きずり込んでいく。彼/彼女らは、サークルを作る。オタクたちが夢見た、美少女とだらだらとゲームをして、いじったりいじられたりする空間を作る。AR的なVTuberは、私たちの世界に入り込もうとする。彼/彼女らは、現実を模倣する。オタクたちは、美少女たちが同じ世界で過ごしていることを想像しながら、聖地巡礼していく。この両者の境界はとてもあいまいだが、VTuberが好きな方であれば、自分の好きなのが一定の傾向があることに気が付くと思う。
 この二つの仮想世界の違いは、主体をどこまでもっていくのかという違いである。近年生まれた言葉に「推し」という言葉がある。好きなアイドルや芸能人に対して使う言葉であるが「好き」とは違い、「推し」には、その好むアイドルや芸能人とは住む世界が違うというニュアンスが含まれる。「好き」というには私なんぞは同じ土俵(世界)に立てません、ということである。そして、VR的想像力は「推し」の観念に近く、AR的想像力は「好き」の観念に近いと思われる。今住まう現実ではなく、仮想の世界に飛び込みたい想像力と、今いる現実を残したまま、より拡張した世界に飛び込みたい想像力である。今の流行は、確実にVR的想像力である。
 しかし、私はVR的想像力よりもAR的想像力の方が、好きである。やはり自分の存在を捨てることなどできない。街を歩くとき、あのキャラクターとすれ違うかもしれないと考えることは楽しいと思わないか?
 この辺のAR的想像力が上手くいっている番組がガリベンガーVだと思う。彼女らが私たちの世界を学んでいく様子に、知識欲以上の興奮があるのだ。

バトンについて

 「教師のバトン」なるものが、悲惨散々な内容ばかりでニュースになって、もうそんな話も聞かなくなった。おそらく未だに悲惨な現状は報告され続けているのだろうが、あまり効果のないことだろう。そもそもが炎上目的のような活動は長くは続かないものである。ツイッターで拡散など、今更社会を変える原動力になりはしない。そんな批判はいったん置いておいて、確かに教員の労働環境は非常に悪い。私も短い期間であるが常勤で働いていたが、今思えば、ブラックというほかない。その要因は様々言われているが、私は、評価システムの問題が最も大きいと思う。法は守るべきものだが、その存在意義は、私たちの倫理観を生み育てることである。評価は、私たちの倫理観に影響を強く与える。イイネの数を争う様子がまさにその端的な例と言えるだろう。
 
 教員として働いていて、一番いびつに感じたのは評価の問題である。教育委員会からどう思われているのか。この評価は、全くもって正しさを有していない。
 指導力という便利な言葉がある。教育の仕事を経験した人であれば、必ず耳にしたことがあるだろう。この指導力という言葉は、普通に考えれば、どれだけ子どもたちを育てる力があるのか、という意味になるだろうが、これは誤解である。この言葉は教員の麻酔である。指導力という大義名分の下、あらゆる行為が正当化される魔法の言葉である。
 彼らの言う指導力とは、子どもたちに言うことを聞かせる能力の事である。指導力の高い先生の授業は余白がない。彼の一挙手一投足に注目し、望み通りの行動が求められる。彼の望まない行動は減点対象になり、誰かが命令を破れば、クラス全体で連帯責任を負う。次第に生徒たちは諦めて、命令に忠実に従う。楽しそうにしろと言われれば、楽しそうにし、静かにしろと言えば、沈黙が生まれる。そういったことを平然とやれる人間が、周りの教員や教育委員会から「指導力の高い先生」と呼ばれる。
 私が見た最も「指導力の高い先生」は素晴らしい指導をしていた。その集大成として、3年時には、生徒会選挙において、全候補者信任率100%を達成した。クラスのすべての生徒が、立候補者全員に信任投票をしたのである。これは、異常と言わざるを得ない。全会一致というのは、民主主義政治においては失敗である。全会一致の選挙なぞ、某北の国かどこかの話である。こんなことを平然とやれてしまう社会科教員が、指導力の高い人物といえるのだろうか。どうやら教育委員会にとって、そのようだが。
 委員会は、かのような人物を評価する。そうなれば、下々のものが目指す姿は、当然「指導力の高い先生」となる。「指導力の高い先生」を目指す君の行動は、指導力の名のもとにすべて肯定されるだろう。親も、子どもたちの一糸乱れぬ行進に涙を流すに違いない。来賓の皆様方も、反りすぎた胸に拍手が止まらないだろう。
 
 労働時間に給料など、些末な問題である。どれだけ労働時間が短くなり、給料が上がろうとも、彼らの理想が変わらなければ、誠意ある者たちの嘆きは止まらないだろう。苦しみの本質は、ただひたすらに、教師と子どもの余白のなさから生まれているのだから。

雨について

 これを書いているとき、私の住む場所には雨が降っている。
 雨が好きである。雨が降った時のシンと静まるような空気が好きである。また、雨が降って濡れた車道を走る車の音が好きである。なんにせよ、雨が降る町が好きである。
 随分昔のことだが、雨のことば辞典という本を買ったことがある。どうやら日本には雨についての言葉が豊富にあるらしく、文庫サイズであったがそれなりの厚さの中に、雨に関する言葉が敷き詰められている。今、久々にパラパラとめくっているが、1つ1つの言葉よりも、これだけたくさんの言葉が費やされていることに、とても喜びを感じる。
 私は、事典とか資料集といったものが好きでよく買っているが、その理由は、今書いたことが理由なのだろう。何か一つの物事に、多くの言葉や考え、時間が費やされているという事実を端的に表したものが、事典や資料集なのだ。だから、私の周りには、対して読んでいない事典や資料集がたくさんある。大事なのはそこに書かれていることではなく、その本が存在する現実にあるのだ。その現実が、私の部屋を圧迫しているのだ。
 友人とも以前、事典や資料集の事が話題に上ったことがある。読まないものはいらないらしい。ものすごく当然のことである。しかし、私はその当然から外れて、事典や資料集を買いあさってしまう。これはなぜだろう。
 事典や資料集は、私について記載されていない。しかし、その本たちは、私に偶然的にも必然的にも私と出会い、買われた物たちである。その行動なり判断なりがそこには生きていて、それは、私が「これだ」といって探したものばかりではないのだ。雨のことば辞典がその代表だ。この本は、たまたま私の目にとまって買ったものだ。だからこそ、たとえ読まなくても、その時に感じた思いは、私を語るにふさわしいものだと思う。偶然に導かれて、手に取ったタイトルやテーマは、私らしさの象徴ともいえるのだろう。そして、その事柄にたくさんの言葉が費やされているのが、たまらなく幸福と感じるのだろう。
 
 現代のシステムは、こういったことが乏しく感じる。私のヤフーニュースは野球と教育で埋め尽くされ、YouTubeではVTuberの話題しかない。しかし、当然のことながら、みんながヤクルトの勝敗に興味があるわけではないし、繰り出されるVTuberは同時接続者が多くて1000人ばかりのチャンネルである。どう考えたって偶然ではない。私の履歴がそうさせているのだ。私好みの情報が集まり、私のために集められた情報なのだ。それは一見便利であるが、偶然に開かれることがない。閉じた世界である。
 そんなことを考えながら、改めて私の本棚を眺めた。買った時のことや、イベント限定のものもあり、思い出深いものである。その時の経済状況を考えるとよく買ったな…と思うものもたくさんある。しかし、この偏った感じは何なのだろう。まるで、私のために集められた本のようだ。

開会式

 いろいろと文章を書くことは好きだったと思うが、結局長続きしたことがなかった。
 何かコンセプトが決まっているとネタを探すように生きねばならない。これでは続きようがない。
 しかし、テーマなしで書くならいいかと思った。
 他のサイトでも書いて、中途半端にしたままの原稿はあるが、それは眠りについてもらって、ここではノンジャンルに書いていこうと思う。